人は本当に「~診断」が好きだ。血液型診断とかビッグ5とか、MBTIとか。
今の転職先でも、さっそく私のMBTIを聞かれたものだ。
(なお、正しくは16personalitiesとMBTI診断は別物らしい→日本MBTI協会について | [公式]日本MBTI協会 でもわかりやすいので、↓画像を拝借する)
だが、実は困ってしまった。
というのも、診断は何度か受けたことがあるのだが、受ける環境によって全く違う結果が出てしまう。
人が周囲にいる環境で受験すると『冒険家』であるISFP-Tが、一人だけの環境で静かに受験すると『建築家』であるINTJ-Tという結果が出るのだ。
…二重人格じゃん。


16personalitiesサイトから
ただ、ちょっと納得してしまった部分もある。
人の輪にいると、正直先のことなんてどうでもいい。どうせ未来なんてわかんないのだから、今をめいっぱい楽しむべきだって考えが頭を占める。
目の前の人が何を考えているかすごく興味あるし、どうしてそんな考え方をするのかってすごく興味がわく。だから、「分からないことがあれば人に聞いてしまえばいい」って結構、突撃できる🐗
でも、人の輪にいると、すっっっごく疲れる。
いくら聞いても、考えても、相手の”今の”考え・気持ちは結局分からない。
人の表情、仕草、声音なんかで察知できるものは多い。それらは、言葉とは裏腹だったりする。1人だけじゃなく、複数人いれば、もっとしんどい。
みんなで楽しむって、結構難しかったりするんだよね。
だから、一人になると、もう一人の私が声をかけてくる。
「何のために、雑談してるの?何かメリットはあった?」って。
『人と話すことに、意味や理由なんて必要ないでしょ。会話は楽しいものだよ』ってなけなしの体力で返事するけど、一人になってしまった私に味方は居ない。
でも、一人の空間で、ようやく体力を回復できる。
誰かの声や視線がなくなれば、自分の好きなようにものを考えられる。
今日の出来事や、相手の言葉、自分の反応。
自分の言葉の意図が正しく伝わったか、言葉足らずではなかったか。あの言葉にはどういう意味があったのか…とか。
この状態になると、私はテレビや音楽、ラジオは消してしまう。特に人の声は嫌だ。
でも、冷蔵庫とか加湿器の音、外から聞こえる風の音とかは好き。
静かに、今日あったことを思い起こして、明日の予定を考える。
未来は分からないからこそ、自分の足で歩かないといけない。そう思いながら。
思い起こせば、記者の時にこそ、育てられた考え方なのかもしれない。
元来、好奇心は強い方だし、人に聞くこと(取材)が仕事だった。⇒ISFPが優位
そして、一人になれば、持ち帰った情報を正しく整理して、原稿を書く。⇒INTJが優位
…2つの結果が出ることに自分一人で納得したはいいけれど、ISFPとINTJの性格はパっと見、かなり離れている。
これは二重人格だと言われても仕方ない。だが、それだけは困る。
ISFPは、お気楽マイペースで興味があるから行動するという、行動原理が単純だ(私の土台はこっちだと思っている、というか思いたい)
一方、INTJを調べてみれば、『サイコパス』ランキング1位、『最も嫌われている』MBTI2位、『怒ると怖い』MBTI3位などなど…さんざんな言われようだ。
自己完結してしまっているから、相手に説明しようとか思わないし、分かってもらえるとも思っていない。でも好奇心旺盛だから(これ結構、タチ悪い)、周囲を観察したり、内省したり。そして勝手に「なぜ?」「どうして?」って考えて満足してる。
書いていて、これだいぶ気味悪い(笑)
でも勝手に想像・空想することは楽しいし、気づいたら考えている。これは悪い癖でもある(むやみやたらに考えることは疲れるし、何も考えないで実行できる方が人には喜ばれることが多いから)。
ついでに、ラブタイプ診断(https://lovetype16.com/)なんてのもあるようで、MBTI診断の恋愛バージョン?のようだ。
早速診断してみたところ…

ちょっと…いや、かなり泣いた。普通のやつ、出てほしかった。
Henry David Thoreau once suggested that “a person need not march in step with others,” and that “the rhythm of your own heartbeat may not be heard by anyone else — and that is perfectly all right.”
Yet if we were to live our entire lives by that principle alone, we might find ourselves unbearably isolated.
What I long for is not conformity but harmony; not confrontation but conversation.
I want to imagine a world in which no one has to be denied for someone else to be understood.

コメントを残す