冬音の記憶(St.1)

いつからだろう。

“死んではいけない理由”を考えながら日々を過ごすようになったのは。

どうして、”ただ生きること”が、こんなにも苦しくて、こんなにも大変なんだろう。

ほとんど何も入っていないはずのカバンが重くて仕方がない。

痛い。苦しい。きつい。しんどい。辛い。

いっそ、今夜寝たら、もう二度と目覚めなければいいのに。

そんなことを考えていると、頭の中でいろんな声が聞こえてくる。

「君が死にたいと思う今日は、誰かが生きたいと願った明日なんだ」

(なら喜んでくれてやるよ、私の明日を)

「自分だけが辛いと思うな。みんな苦しくて辛いけど、頑張っているんだ」

(頑張れない私は、クズか、それ以下か)

「止まない雨はないよ。いつかきっと、晴れるから」

(今が辛いと言ってんだ。晴れるまで待てる体力なんて、もうないよ)

頭の中で、誰かと誰かが言い争っている。

頼むから、静かにしてほしい。

ふと冬音は、自分の足音が聞こえないことに気が付いた。コツコツというヒールの音が聞こえない。

不審に思って顔を上げると、目の前に広がるのは暗い海だった。

月明かりがなければ、きっと気づかなかっただろう。砂浜に入る手前で、海を見下ろせる場所にいた。

だが、自分は家に向かっていたはずだ。ここは知らない場所。

様子がおかしい。

そもそも、目の前は海だというのに何も感じない。海風も波音も、周囲の喧騒すら、何も聞こえない。潮の匂いもない。

ぼんやりと海を見下ろすと、波打ち際には月明かりに照らされた長い黒髪の女がいた。

白いワンピースで海に向かう様子は、まさに入水自殺に向かうよう。

彼女以外、周囲には誰もいない。

異様な光景だ。それなのに、何も感じない。

音も、色も、匂いも、自分の感情すらも分からない。

体も動かせなかった。心臓の音も、手は震えているのか、汗をかいているのかすら分からない。

けれど、何もかもが、どうでもよかった。

ただ、白い月明かりと、黒い海。

女はゆっくりと、こちらを振り返る。

冬音は、静かに微笑んでいた。